新宮観光協会

■大石 誠之助

慶応3年(1867)、新宮に生まれる。『平民新聞』などにリベラルな思考を発表した医者。やがて大逆事件の犠牲に。

 同志社英学校等を中退後渡米しコックをしながらオレゴン州立大学医科を卒業。アメリカ帰りの医師として明治29年(1896)新宮で開業する。禄亭・永升として情歌(都々逸)の宗匠としても活躍した。シンガポールやインドなどで伝染病を研究、この頃から社会主義への関心を深めた。明治37年(1904)、非戦論を説き、社会主義雑誌への投稿を始め、幸徳秋水らと交友する。その一方で、西洋的合理生活を目指して衣食住についても発言。明治43年(1910)に大逆事件に連座させられ、秋水らと共に逮捕され処刑。「嘘から出た真」の言葉を残して絞首台上の露と消えた。


■西村 伊作

明治17年(1884)新宮に生まれる。大正モダンを実践した寵児。東京・御茶ノ水の文化学院の開校をはじめ、建築では「居間式住宅」で新風を巻き起こす。東京に理想の住宅街を造ろうとする佐藤春夫の短編『美しい町』。そのモデルといわれるのが新宮生まれの西村伊作である。父大石余平はキリスト教伝播に奔走していたが、濃尾大地震に遭い妻と共に圧死する。伊作は母の実家奈良県の山林王西村家を継いだ。多彩な文化人としての生活を送り、絵を描き陶芸に取り組み、新しい生活改善に根ざした建築設計を実践した。信州松本の「文化村」と呼ばれる地区などはその典型。「楽しき住家」などの著作もある。伊作はそれまでの客を中心とした封建的な家の造りに疑問を持ち、西洋風の開かれた住宅を参考に、家族中心の居間式住宅を多く手がけた。新宮の西村記念館となっている自邸は大正4年(1915)竣工の純木造洋館。岡山県倉敷教会も彼の設計だ。自邸には陶芸家のバーナード・リーチや画家の石井柏亭・陶芸家の富本憲吉らが長期に滞在し、一大サロンを形成、「生活を芸術として」を実践した。

 大正10年(1921)には、与謝野鉄幹・晶子夫妻らの協力で、東京・御茶ノ水に、日本で最初の男女共学、自由主義的な教育で知られる文化学院を開設した。

 第二次世界大戦中その思想が当局から睨まれ、不敬罪で投獄され、学院は閉鎖された。しかし、戦後復校し、文化芸術の分野で多くの人材を輩出した。自伝『我に益あり』がある。大逆事件で刑死した大石誠之助は叔父に当たる。


■東 くめ

明治10年(1877年)新宮に生まれる。滝廉太郎とのコンビで、いまでも歌い継がれる不朽の童謡を数多く作詞。

 東京音楽学校(現・東京芸大)卒業後、東京府立第一高等女学校(現・都立白鳳高校)で教員をしていたが、同じ新宮出身の東基吉と結婚。幼稚園教育理論を研究していた夫の勧めもあって、子供にも分かる口語歌詞の童謡を作り始める。2年後輩の滝廉太郎が作曲を担当し、コンビでできあがった作品は『鳩ぽっぽ』や『鯉のぼり』『お正月』『雪やこんこん』など。明治34年(1901)に刊行された『幼稚園唱歌』にそのほとんどが収められている。これらの唱歌は長い間作詞者不明とされてきたが、戦後のNHKのテレビ番組「私の秘密」で公表され、一躍有名になった。新宮駅前に『鳩ぽっぽ』の歌碑がある。


■畑中 武夫

 熊野川河原で星空を眺めることに熱中した武夫少年は、一高から東京帝大に進み天文物理学を専攻、東大教授として惑星状星雲の放射機能を研究、その第一人者となった。 戦後、電波天文学を研究テーマに替え、日本電波天文学のパイオニアとなる。昭和32年(1957)、東京天文台の天体電波部門の初代部長になり、同年米国のコーネル大学と共同して太陽電波の同時観測を開始。国境を越えての初めての国際研究として注目を集めた。岩波新書の名著『宇宙と星』は、入門書として広く読まれている。「われら地球人」の碑が県立新宮高校玄関横で後輩たちを見守っており、国際天文学会は月面火口に「ハタナカ」の名を冠して讃えている。


■村井 正誠

明治38年(1905)、岐阜県に生まれ、新宮に移り住む。我が国モダンアートのパイオニア。当初の二科会出品作が『新宮風景』。岐阜県大垣の生まれであるが、眼科医であった父の転勤で小学から中学時代を新宮で過ごした。西村伊作が風景スケッチする姿を目にし、それが絵画への開眼となった。昭和3年(1928)、パリに渡り5年間の留学の間に、マチス、ブラック、ピカソなどの影響を受けた。

 『パンチュール』シリーズで脚光を浴び、帰国後モダンアート協会の設立に参画。骨太なフォルムで色彩豊かな抽象画を手がけた村井は、内外の数々の賞を受賞する。

昭和41年(1966)、新宮市民会館玄関に大壁画『熊野』、晩年には母校新宮高校に壁画『新宮の山と海と空』を完成させている。文化学院美術科第一期卒業生。