『岬』で第74回芥川賞を受賞。
作品の大半は熊野が舞台。血と暴力とエロスが交錯する中上ワールドは「世界文学」として評価が高い。
「校舎もなければ入学試験もない。卒業は死ぬとき」を合言葉に、「熊野とは何か、熊野の思想とは何か」を大命題とした熊野大学構想が動き始めたのは、昭和64 年(1989)1月のことだった。以降毎月「熊野大学準備講座」と銘打った集まりが、熊野速玉大社双鶴殿を主会場として開催され、その都度中上健次は、何処にいても、どんなに忙しくても新宮に戻ってきた。もちろんあらゆるスケジュールを割いての新宮行である。
その頃すでに、月に連載を4本以上、週の連載を2本以上、さらに新聞小説まで執筆していた。他にもインタビューなど細かな仕事も当然あり、また次の作品のための取材などもあったはずである。にもかかわらず、新宮行は殆ど途切れることなく、入院の前月まで続いた。ある意味で仕事よりもこの準備講座を大事にしていた。
中上健次は、昭和21年(1946)8月2日に新宮市新宮6756番地に生まれた。複雑な家系に生まれた彼は、代表的ルポルタージュ『紀州木の国・根の国物語』に「実父はスズキと言い、母の私生児としてキノシタ姓に入り、高校の時からナカウエになった。18歳で東京に出て、私はナカガミと名のった」と書いている。
新宮高校卒業後上京し、20歳の頃から同人誌『文芸首都』に小説・詩を発表しはじめた。昭和44年(1969)に『一番はじめの出来事』(『文藝』八月号)によって文壇デビュー、翌年には作家紀和鏡と結婚、羽田空港で荷役に従事する。昭和49年(1974)に『19歳の地図』、昭和50年に『浄徳寺ツアー』『鳩どもの家』、翌年には『岬』で第74回芥川賞を受賞した。
後に熊野大学のメンバーに「芥川賞を俺が受賞して一番ビックリしたのは、羽田の頃の上司とちがうか。だって、俺のこと、字が書けんと思っていたみたいで、会社への書類も代筆してくれたぞ」と笑っていた。
昭和52年(1977)には『枯木灘』で毎日出版文化賞、翌年には芸術選奨新人賞を受賞。その間、アメリカ長期滞在も体験、翌年頃から韓国、アメリカ大陸横断?ジャマイカ、ベトナムと、ほぼ毎年アジアを中心に世界を飛び回っていた。熊野大学の宴会でもよく「東京は消費するだけの街や。ここ熊野から目を向けるべきは、ニューヨークであり南アフリカであり、世界なんや」と熱っぽく語っていた。
作品の多くは、新宮を中心とする紀州の「路地」を舞台に濃密で複雑な人間関係とともに「抑圧する者・される者」という視点を含めながら豊穣な物語が展開していく。とりわけ『枯木灘』は「日本近代文学史の全要素を凝縮したような形」(文芸批評家柄谷行人氏)と言われ、私小説の悲劇性と物語の悲劇性を融合させ、そのどちらをも超えた文学のありようを示した。
昭和53年(1978)には「部落青年文化会」を主宰、後の「隈の會」(熊野大学の母体)につながっていく。平成2年(1990)6月に「準備講座」をはずし、熊野大学として正式に発足する。
その開講式のための「真の人間主義」で、前段に「近代と共に蔓延した科学盲信、貨幣盲信、いや近代そのものの盲信」による地球の破滅=世界的危機を憂い、その後段で「人間は裸で母の体内から生まれた。純正の空気と水と、母の乳で育てられた。今一度戻ろう、母の元へ。生まれたままの無垢な姿で。人間は自由であり、平等であり、愛の器である。霊地熊野は真の人間を生み、育て、慈しみを与えてくれる所である。熊野の光、熊野の水、熊野の風。岩に耳よせて声を聞こう。たぶの木のそよぎの語る往古の物語を聞こう。そこに熊野大学が誕生する。」と書いた。
今一度我々はこの言葉をかみしめつつ、熊野の風土や歴史を踏まえた上で、この地の未来に思いを馳せることが、彼の高い志や迸る情熱に少しでも近づく方途であると思う。作家はかって元気だった頃、東京から電車で帰新する際「尾鷲あたりから顔が緩んでくる」とも「ここにいるとなぜか筆がすすむ」とも言った新宮に、平成4年(1992)7月7日七夕の日、重病に冒された身体で帰ってきた。本人のたっての希望だった。乳飲み子があたかも温かい母の胸に誘われるように。そして8月12日、家族、そして限りない愛情で慈しみ育ててくれた母に看取られ、静かに息を引き取った。享年46歳。誕生日の10日後のことだった。