新宮観光協会

『田園の憂鬱』で大正文学にデビュー。

作家・詩人・評論家として厖大な作品を残す。

昭和35年(1960)、第20回文化勲章を受ける。

翌36年、新宮市名誉市民となる。

 東京都文京区、関口町の自邸を移築して、佐藤春夫記念館が新宮・熊野速玉大社境内に開館したのは平成元年(1989)である。再現された応接間は中国風のロビィの感じで、板間に畳二畳が敷いてあり、そこに多くの著名な人々が座を占めた。太陽光をふんだんに取り入れたサンルーム、八角塔の二畳の書斎も春夫が好んだところで、いまそこからは神社の境内の樹々が臨まれ、その向こうに熊野川が和歌山県と三重県の県境を成して流れている。

 記念館から国道を跨いで徒歩5分ほどのところに、春夫生誕の地の碑が立っている。「よく笑へどちらを向いても春の山」ー医師で俳人でもあった父豊太郎が生誕の日に詠んだ句が、春夫揮毫によって彫られている。

 さらに5分ほど行くと、城山の麓、父の熊野病院に辿り着く。やがて自宅も兼ねる春夫の「成育の家」となる。新宮中学に進学した春夫は、面接で将来の志望を問われて文学者と答えている。その父の病院で春夫は「初恋の人」と出会う。大前俊子ー1歳年上の女性であった。

 春夫の最初の詩集『殉情詩集』には、初恋の人の面影が色濃く影を落としている。

「野ゆき山ゆき海辺ゆき/真ひるの丘べ花を敷き/つぶら瞳の君ゆゑに/うれひは青し空よりも。」(『少年の日』)この女性は、色白でつぶら瞳、後に春夫は「お伽噺の王女」とも呼んだ。しかし、子供たちを残したまま32歳で、信仰深い人生を閉じることになる。「われをよぶつぶらひとみの/ミニヨンにまがひしひとは/早く世にあらずなりぬる。(『望郷曲』)、ゲーテの『ウィリヘルム・マイステル』に登場する少女に託して、春夫は早い死を悼んでいる。

『殉情詩集』を色濃く染めるもう一人の女性は谷崎潤一郎夫人千代。夫潤一郎にないがしろにされる千代を見て、春夫の同情心はいつか恋心に変わってゆく。

ほろ苦さを込めた絶唱『秋刀魚の歌』は「あはれ、人に捨てられんとする人妻と/妻にそむかれたる男と食卓に向かへば、/愛うすき父を持ちし女の児は/小さき箸をあやつりなやみつつ/父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。」という、「世のつねならぬ」団欒を秋風に託して回想している。さまざまな柵、曲折があって、この詩に詠われた「人妻」と「女の児」が、春夫と一緒になるまでには、10年に近い歳月を要した。世に「夫人譲渡事件」として喧伝された事件の裏には、すでに作家として名を成していた春夫と潤一郎との、実に真摯な対応が隠されていた。

 今、『秋刀魚の歌』の詩碑が、JR紀伊勝浦駅前にある。那智勝浦町下里が春夫の先祖伝来の地、家塾「懸泉堂」のあるところだからである。

 春夫記念館がある同じ熊野速玉大社境内に『望郷五月歌』の詩碑がある。冒頭19行が築地塀を装った碑の陶板に自筆で彫られている。

「塵まみれなる街路樹に/哀れなる五月来にけり」で始まる52行の長詩は、春夫の〈望郷譜〉の代表といえる。都塵にまみれて鬱屈した心情を、東京に背を向ける形で故郷紀の国の明るく輝く自然を叙すことで慰めてゆこうとする。

 春夫の念願がかなって、千代夫人と結婚したのが昭和5年(1930)。恋愛の縺れは解決したが、心労のため健康を損ねる。春夫は実家「懸泉堂」に帰省、南紀の暖かい冬から春を過ごして静養した。

 上京まもない5月、千代との新しい生活が、いま記念館となっている自邸で始まっていた。「空青し山青し海青し/日はかがやかに/南国の五月晴こそゆたかなれ」

 少年の日を彷彿させる「佐藤春夫殿下小伝」と題する中学時代の戯文がある。その一節。「御性温厚篤実体操点六拾弐点也、笑ひ給へば二本の牙を露出し給ひ、宸怒あれば臼大の尻を有する下女の類をすらおそれしめ、吹けば(ホラを吹くの意)滔々半日に及び給ふ」という自己諧謔の文章には、春夫文学を貫くユーモアと批評性の一面が、すでに萌芽として窺い知れる。

 春夫は後年帰省するたびに、「花椿ゆかしき国にかへり来ぬ」の句をよく揮毫した。晩年には、自身の命名による那智勝浦町湯川の「ゆかし潟」の入り江の辺に僑居を構えることを夢にしていたという。しかし、それは叶わなかった。春夫が逝ったのは5月、ふるさと熊野はまさに「空青し山青し海青し」の季節であった。