源平合戦における二人の大きな存在感
鎌倉幕府をひらいた源頼朝と、平家を倒したあと悲劇的な最期を遂げる源義経。歴史に名をとどめるこの兄弟の叔母にあたるのが、新宮が産んだ女傑・丹鶴姫だ。丹鶴姫の父・源為義は武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあった八幡太郎義家の孫。この為義が後白河院の熊野御幸に検非違使として随行した際、第15代熊野別当・長快の娘をみそめて結ばれる。 「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた彼女は、生地の新宮で一女一男を産んだ。女児が丹鶴姫で、男児が新宮十郎行家だ。為義の10男として生まれた行家は、最初は源氏の御曹司らしく「義」の一字をいただいて「義盛」と名乗っていた。新宮で生まれ育った行家が天下の争乱のまっただなかに乗り出すきっかけとなったのは、同じ源氏の源頼政の口ききによる。まっさきに平家に反旗をひるがえした頼政にとって、血筋がよく、弁舌達者な行家は重宝な存在だった。頼政は行家を八条院蔵人に推したうえ、「平家を討つように」という以仁王の令旨(命令書)を伝達する使者として白羽の矢をたてた。行家は熊野の山伏姿に身をやつし、近江、美濃、尾張と源氏の残党を説いてまわった。旧名の「義盛」から「行家」に改名したのは、熊野別当第19代の行範とのかかわりを強調する「行」がついているほうが諸国に散らばっている熊野山伏たちの庇護を受けられたからだろう。
以仁王の令旨を携えた行家は、治承4年(1180)5月1日、鎌倉の北条館に到着した。令旨を受け取った頼朝は、水干の装束をつけ、男山八幡宮に向かって遥拝してから目を通したという。鎌倉から信濃へと足を伸ばした行家は、甥の木曾義仲に会って挙兵を説いた。行家には全国に散らばった熊野山伏の情報のネットワークによるすぐれた情報収集能力と、コーディネーターとしての才能があり、それは源平抗争の時代では群を抜くものがあった。 ただ、行家には姉の丹鶴姫に従う熊野水軍の一部はついていても、頼朝に従った坂東武者のような強力な手勢はなく、また義経を支えた奥州の藤原秀衡のような財力、あるいは弁慶のような忠実な部下にも恵まれていなかった。いわば、徒手空拳で権謀術数のかたまりのような公卿たちと荒っぽい東国武士たちの間を渡り歩かなければならなかったのだ。日本史上、天下の情勢を一変させるほど縦横に活躍した最初の熊野人といえる行家だが、もしも義仲や義経がもっていたような兵力に恵まれていれば鎌倉幕府をひらいた頼朝をしのぐ政治家となっていたかもしれない。
一方、姉の丹鶴姫は、第18 代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。それがのちに第21代別当となる湛増だ。夫の湛快の死後、19代別当行範(鳥居法眼)のもとに再嫁したとされる丹鶴姫は、22代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときも事態を静観していた湛増は、戦局が進むにつれ、源平いずれにつくか迷った。そこで、湛増は田辺の今熊野権現(闘鶏神社)の社前で白い鶏7羽、赤い鶏7羽を蹴合わせて神意を伺ったという。白は源氏、赤は平家の象徴だったが、蹴合いは白い鶏が勝った。熊野水軍の兵船200余艘に乗った屈強の熊野衆2000余人は、屋島から壇ノ浦へと出陣した。源氏の白い旗が船のへさきにひるがえるのを見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。
平家が滅亡したあと、行家は甥の義経と手を結び、頼朝追討の宣旨をえて挙兵した。頼朝の大軍が京へとめざした文治元年(1185)11月3日、義経と行家の一行は摂津の大物浦から九州へ船で脱出しようとしたが、突風により船が転覆してしまった。ようやく浜にあがった行家は、義経とともに大物浦から吉野へ抜け、大峰?多武峰?十津川へと逃亡の旅をつづけた。 行家と別れた義経は、延暦寺や興福寺、鞍馬寺などに隠れ住み、最後は北陸加賀方面から奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたが、行家は翌年5月、和泉国の日向権守清実のもとに潜伏しているところを、鎌倉方の追手に突き止められてしまった。行家は追手の常陸坊昌明とすさまじい格闘を演じたすえ、力つきて捕えられ、和泉の赤井河原で斬られた。姉の丹鶴姫とともに強力な熊野水軍を源氏の味方につけ、平家を壇ノ浦で壊滅させるのに力があった行家は、武家政権を確立した陰の功労者で、公卿たちの論功行賞も「頼朝第一、義仲第二、行家第三」(『玉葉』)と評価されたのに、最期は無惨なものとなった。 髪をおろした丹鶴姫は東仙寺を建て、高齢でその生涯をおえた。東仙寺で読経しながら、丹鶴姫はいったいなんのために弟の行家とともに源氏に肩入れしたのか、という虚しさを噛みしめていたに違いない。