熊野三山のひとつで、熊野速玉大神が主神。朱色に輝く社殿が眩しい。新宮人の心の故郷である。
熊野川の河口に位置する新宮の速玉大社。熊野三山(本宮・新宮・那智)の社務を統括する熊野別当の本拠が、この新宮の地におかれたこともあって新宮の速玉大社は特別の地位を占めるようになった。
熊野別当は荒海をものともしない熊野水軍の統率者でもあり、平治の乱(1159)には平家方に、屋島・壇ノ浦の源平の決戦には源氏方につくなど、ときの権力を左右する力をもっていた。
熊野川の流れを背にした千穂ケ峰の山すそ。鮮やかな朱塗りの大鳥居をくぐると、心が静まる空間がひろがっている。かつては「日本第一大霊験所、根本熊野権現」として紀州半島南部に広大な宗教王国を築いていた熊野権現速玉大社だ。熊野速玉大神を主神に、家津御子大神、夫須美大神の三神をまつる。社伝によると、以前は神倉山にまつられていた神々を景行天皇(71?130年)の時代にいまの場所にうつし、それが「新宮」の名のおこりになったという。
「速玉」の社名の由来は、伊弉諾の唾の力を災いやけがれを払うまじないとしてあがめ、速玉男之神として神格化したという説、船の舳先で黒潮の怒濤を切り裂く水しぶきを聖なる飛沫として「速玉」と呼んだという説などさまざまだ。
古い記録には「地下七尺五寸の処に玉を埋蔵した」という記事もあるという。
熊野への旅が特に盛んになったのは、平安時代に浄土信仰がひろまってきたことによる。京都からみて真南に位置する熊野は、現世における極楽浄土とみたてられた。
平重盛の手植えと伝えられる国の天然記念物の巨大なナギの樹を左に見て、神門をくぐると壮麗な朱塗りの熊野造りの社殿と流れ造りの社殿が視界いっぱいにひろがってくる。
社殿には七体の古神像(重要文化財)が安置されている。いずれもヒノキの一本彫りの着色座像で、このうち四体は平安時代初期の作と伝えられる。境内には、ほかに八咫烏神社、鍵宮、といった末社、合祀社がある。毎年10月15・16日に行われる速玉例大祭のハイライトは、16日の御船祭だ。神輿を載せた華麗な朱塗りの神幸船が、熊野諸手船にひかれて1キロほど上流の御船島まで渡御するが、その前を9艘の早船が沿岸の見物人の歓声のなか競漕にうつる。その昔の熊野水軍の勇壮さを思いおこさせる迫力満点の競漕で祭は最高潮に達する。
境内にある「熊野神宝館」は、1000点にのぼる国指定文化財を所蔵し、館内で一般公開している。中世の櫛や紅皿、眉筆などの化粧道具が入った蒔絵手箱や檜扇など、朱塗りの唐櫃におさめられていたため、ついこの間まで使っていたかと錯覚するほどである。25枚の薄い檜板に金銀の箔を貼り、土佐派の画家が描いた山水花鳥が表と裏面にえがかれた檜扇は必見ものだ。朱塗りの弓、金銅鏑矢、鉄鉾などの武具や銀の縫針、錦包木枕といった中世の生活用具も見落とせない。古神宝(国宝)、付属品をふくめると総数1220点におよぶ。